違うのに同じとみなされるー脱カテゴライズ時代

働くことと子供の犠牲

以前同僚の方が言っていた「働くことで子供を犠牲にしてはいけない」という言葉が頭の中に残っています。仕事が終わらなくて、子供の食事の時間が遅れたり、イライラしながら子供に接してしまう自分に罪悪感を感じてしまうという意味でおっしゃっていたのですが、私の中ではとても印象的な言葉として今でも残っているのです。

なぜかというと、シングルマザーとして働いている私にとって「働かないこと」は「子供を犠牲にすること」に直結するからです。働いて収入を得なければ、子供に十分な暮らしをさせることができず、教育を受けさせられないことで将来の可能性を閉ざし犠牲を生むことになります。その同僚の方は旦那さんも働いておられ、労働する目的としては収入よりもある種自己実現に近いものがあるようなのですが、立場によってこんなにも物の見方が違うのだなとまざまざと感じた瞬間でした。

違うのに、同じとみなされる

このような考え方や立場が真逆に近い私とその同僚の方も、社会においては「働く女性」「ワーキングマザー」として同じカテゴリーに分けられます。女性活躍という社会の流れにも一緒に巻き込まれてしまい、私のような「頑張って働くぞ!」というワーキングマザーには喜びを、同僚の方のような「適度に働きたい」というワーキングマザーには弊害を与えることになります。あまり良くない状況です。

でもこれは、女性だけでなく、男性にも同じようなことが起きているのではないでしょうか。男性だから全てを投げうって働き、出世のためなら単身赴任も厭わないだろうと思われていた今までの社会においても、「自分は違うのに」という気持ちを抱えていた男性は多いのではないかなと思うのです。

映画バービーを見て深まったその気持ち

公開当時SNSのマーケティングが炎上して、あまりその内容にフォーカスが当てられなかった映画「バービー」。オンラインでのレンタルが開始していたので、早速見てみました。見て驚いたのは、可愛くポップなビジュアルとは裏腹にその内容は大変硬派であり、女性男性を超えた問題提起をしていたこと。

映画の主人公はもちろんバービーであるのですが、本作ではどちらかというと、バービーの曖昧な関係のボーイフレンドであるケンの方が重要な役割を果たしていた気がします。

バービーの世界では、バービーが大統領や宇宙飛行士、物理学者など様々な職業についている中、ケンは終始脇役であり、お飾りです。どのような仕事をしているのかなどの設定もなく、「ただビーチにいる人」として存在する、本当にお飾りなのです。色々あって、リアルな人間社会にワープすることになったバービーとケン。ケンは、バービーの世界とは完全に男女逆転した「男が尊重される社会、男がリーダーである社会」に感銘を受け、バービーの世界にその世界観を持ち帰ります。そして、バービーの世界を「リードするケンとそれをサポートするバービー」という世界に変えてしまうのです。最終的には、バービーとケン、どちらも自分の能力を発揮できる世界を目指すこととなり終わりを迎えますが、その騒動の最中にあった「社会において注目されないことは辛いよね」とバービーがケンに謝り、「自分にはリーダーは向いていない、今の時代なら男が泣き言を言っても良い」とケン泣くシーンが印象的でした。

この辺り、現実社会をすごく良く反映しているように感じたのです。

ありたい自分でいられる社会

男性、女性、ワーキングマザー、などとカテゴライズされることなく、その人の価値観にあった生き方が理解され、尊重され、実現できる社会が理想なのですよね。なぜ、それができないのか。その原因が社会の仕組みに課題があるのはもちろんですが、私たち側にも「個人としてどうありたいのか」の未来像があまりないことにもあるように思います。

幸いにも「キャリアよりもプライベートを優先したい」「どんどん働いて出世したい」と色々な考え方を発信することが、少しずつ認められている時代になっているように思います。発信できる自分自身としての考えを持ち、それをブラさずに生きる意思を各人が持ち続けられたら、社会はもっとよくなるのではないかなと思うし、私も「どうありたいのか」を明確に持たないといけないなと思うのです。今年ももう終わり、来年に向けて改めてじっくり考えたい次第です。